モンマルトルの丘で、歴史散歩。

フランス社会・街並み・建築
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先日、久々に前田先生の美術コンフェランスで
モンマルトルに行ってきました。

テスト後に行ったのはモンパルナス。
今回はモンマルトル。
名前、ちょっと似てますかね。(←若干疲れ気味)

朝9時過ぎだと、観光客もまだ少なくて静かです。
ここなんか、丘の上にいるんだなって、すごく分かる。

第一次大戦までの、芸術の中心地

歴史的に言うと、
第1次大戦まで芸術の中心地だったのが
モンマルトル、
その後は、丘を下ってモンパルナス方面、
サンジェルマン等に移動していったそうです。

でも勿論、今でもモンマルトルには
画家達の組合がありますし、
画家の広場には似顔絵描きさんたちが
いっぱい居ます。組合に入っていないと、
ここで似顔絵描きの商売はできません。

(注意)最近は、モンマルトルで売られている
お土産用の絵は、現地の画家ではなく、
中国で大量に描かれたものだったりします。
現地の風景なんか見なくても、
見本があればそれっぽく描けちゃうので…

元々は石灰岩の採石場だった

そもそもモンマルトルという場所は
元々は石灰岩を掘り出していた採石場でした。

現在は地盤が崩れやすくなっており
新しく建物を建てる事は
なかなか出来ないそうです。

崩れそうになってるところがあると
セメントで埋めたりして補強しているようです。
パリは地震がないので、
工事等で大きな衝撃を与えたり
重いもの建てたりしなければ何とか大丈夫…
というラインかと。

公園の入り口

この場所は、古い掘建て小屋があったのを壊して
公園にしたところです。
公園なら、地盤が悪くても、
建物つくらないからそれほど問題ないか。

確かに「傾斜地」で「建物が密集」してて
軟弱地盤」だったら
新築工事するのは怖いな…建築屋的には。

それでも、昔ながらの街並は
少しずつ消えつつあるのだとか。
観光客向けの店も増えてますしね…。

かつての風情が残る場所

ちなみに
「本当に昔ながらのモンマルトルの風情」が
残っている道というのは、
こんな風に道幅が狭くて
真ん中がくぼんだ石畳の道です。

オスマン男爵がパリ大改造する前の道は、みんなこんな感じ。

あの真ん中のくぼみは何かというと
上から水を流して、ゴミを流す為のもの。
当時は
「(水を)流すぞー」の声がかかると
道の両脇の家々の窓から、くぼみを目掛けて
一斉にゴミが投げ捨てられた街、パリ。(怖!)

だからフランス人って、
今でも道に平気でゴミ捨てるのかも。
感覚の差ね。

道幅が狭いから、例えば両側の窓から、道に家具でも放り出せば、簡単にバリケードがつくれる。これならすぐにゲリラ戦が始められます。(革命の時に便利だった)

地震の話のときにも書きましたが、
パリの都市計画には
地震対策の観点はありません。
当時の政府の「市街地ゲリラ戦対策」が
こうした狭い道の撲滅だったそうです。
パリを改造して、バリケードが作りにくい程度の
道幅に広げまくった…ってことですね。

19世紀のモンマルトルと言えば
ぶどう畑、小麦畑が広がる場所。
(ルーブルにも当時の風景画があります)
今は、そのぶどう畑も少なくなってしまい、
下の写真の場所は、パリ18区が買い取って
保護している畑です。

この時期は緑がきれいですね。有名な「ラパンアジル」のすぐ目の前

毎年ワイン祭りも開催されており、
味はともかく
モンマルトルのぶどうで作ったワインを
今でも味わうことができます。
味はともかく…(二度言います)
当時をしのび、気分を味わうってことで。

1000年前からここに人が居た証、Eglise Saint-Pierre

一方こちらは
観光客でいっぱいのサクレクール寺院の横に
ひっそり建っている
サンピエール教会(Eglise Saint-Pierre de Montmartre)。
1147年築、日本でいうと何と平安時代の建築。
パリで最も古い教会の一つです。
それを改修して、今も使い続けています。

何度も改修しているから、
ロマネスク様式とゴシック様式が
ごっちゃになってたり、
昔の柱頭の彫刻が消されて時代が
混ざっちゃってたり、
入り口のブロンズ扉が
20世紀になってからつけられていたり、
知ってる人がみると、
不思議なデザインパッチワーク状態になっているらしい。
(私はそこまで詳しくありませんが)

つまり、1000年前から
モンマルトルには人が住んでたって事ですね。

モンマルトル美術館付近もお散歩

モンマルトルは坂が多いから、
歩きやすい靴がいいですね。

モンマルトル美術館の中庭。本を読む女の子が絵になります。
所々大きな家もある。
どんな人が住んでいるんだろう。
早い時間だったので、レストランやカフェもまだ準備中で静かです。La Bonne Franquette前

それから、かつてピカソも住んでいた「洗濯舟」
という名前のアパートの前も通りました。
今はその建物をパリ市が買い上げて
若い画家たちに貸しています。
(居住者がいるので、中には入れません)
「洗濯舟」のかつての写真を見ると
なかなかのボロアパートで、
なんだか日本の「トキワ荘」を彷彿させます。
そうかあ、ピカソもトキワ荘だったのかあ、
なんて勝手に重ねてみたり。

サクレクール寺院とは何か

昼頃のサクレクール寺院は
観光客であふれかえっていました。
ゆっくり見るというよりは
人の流れにのって進まないとならない程…!

でも朝の9時過ぎに来れば、こんなに静かで、
外観がとても神々しく見える。

今回、歴史の数字を認識して改めて驚いた事が一つあります。
このサクレクール寺院は、パリのノートルダム大聖堂などと違って、そもそもフツーの「教会」ではありません。

1871年、パリコミューンという市民革命があり、
何と、この狭いパリで、約2ヶ月の間に、
約17000人の市民が亡くなっている。

家族や兄弟の中でも政治的意見がわかれ、
家族同士、兄弟同士でさえ殺し合ったという
パリ市民にとって忘れられない事件。

そしてこの時に亡くなった人たちの為に
建てられたのが、サクレクール寺院

カミサマや聖人の為に建てたんじゃない。

パリ市が今の20区にまで広がったのは1860年。
パリコミューンが起こったのは1871年。
1871年のパリは、拡張後のサイズでも
たった南北9キロ、東西11キロという
本当に小さな街。
東京の地図と見比べてほしい。
ざっくり言えば、山手線の内側くらいですよ。

しかも当時、まだまだ18区のこの付近なんて
小麦畑だらけだったし、
実質、山手線の内側の、
さらに4分の1くらいしか
街らしくはなかったろうに。

そんな小さな街で「17000人死亡」なのかと。
その密度。
どこの国にも、忘れられない出来事はあるだろうけれど。

この日、その話を聞いてから
モンマルトルの丘の上から見た景色は、
先日モンパルナスタワーから見たのとは
ちょっと違って見えたような気がしました。

忘れちゃいけないことって、あるんだな。

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