パリに来て半年。
空港以外で初めて、市外にお出かけです。
A先輩ご夫妻、次女のKちゃんと
ご一緒させていただき、
ゴッホが最後に暮らした村
オーベル・シュル・オワーズ Auvers-sur-Oise
へ行ってきました。
ゴッホは、南仏サン=レミ=ド=プロヴァンスの
精神病院を出てから、7月下旬に亡くなるまでの
2ヶ月程を、この小さな村で過ごしました。
パリからは、車で1時間程の村。
東京だと、車で1時間走ったって
まだまだ都会だけれど、
パリからちょっと離れれば
すぐに田舎の風景が広がっています。
車窓から高速沿いに
白い野ばらや鮮やかな黄色の小さな花の群れが
風に揺れる様を見ながら
いい季節だとしみじみ思う。
この辺りは冬はもっと
景色が枯れ草色だったような気がするし。
この村には
1600年代築の貴族の城が残っていて
現在は「印象派記念館」になっています。
日本語オーディオガイドを借りると
当時のパリの街並や、人々の暮らしぶりなどを
からくり小屋みたいに見て
楽しむことが出来るのでなかなか面白いんです。
ミニシアターっぽい部屋や…↓
当時のパリの街並模型や…
当時のパリのインテリアを再現してあったり。
凝ってます。
当時のフランスは、電車という交通手段が
庶民にとっても身近になった頃。
電車の旅の広告絵などを
印象派の画家達が手がけていたそうです。
その絵の出来次第で、旅行集客の成否が決まると
いう部分もあったそうです…。
(今で言う「映える」絵を描くと
ヒットするってことか。ウユニ塩湖みたいに)
プリズムの発見で、点描が産まれたり。
電車の登場で、印象派の画家達が田舎にでかけて
風景を描きだしたり。
時代は、いろんなことが絡んで混ざって
動いていく。
フランスに来て初のウサギ料理にも挑戦。
のんびり散歩しながら、小さな村をめぐります。
ゴッホの描いた教会にも行ってみました。
ランチ後の時間帯に行ったのですが
ゴッホの絵と比べて見ると
ああ、ちょうど同じくらいの時間を描いたのだと
いう事が、影の具合で分かる。
麦畑。
麦の穂が、緑ではなく、少しこんがりとした色。
空の青と、雲の白と、淡い黄金色の麦と。
大きく深呼吸して、
大きな声で叫んでみたくなるような、
そんな気持ちのよい麦畑でした。
(やらなかったけど)
今日は麦畑にカラスは居なかったな。
そしてこの麦畑のすぐ側に
ゴッホとテオのお墓があります。
私には、有名人のお墓を眺める趣味は
それほど無いのですが
(ペールラシェーズ墓地に、ジムモリソンとか
エディットピアフのお墓参りに行く人もいます)
ゴッホがテオと並んでここにいるというので
ご挨拶をしに行ってきました。
土葬の墓地だから、
棺桶大のスペースが夫々に割り当てられています。
その中の、麦畑にほど近い場所に
二人のお墓が有りました。
驚いたのは、この二人のお墓に
おそらくは同じ蔦の葉が一面に生い茂り、
まるで一つのお墓になっているように見えた事。
なんだか二人が手をつないで
眠っているかのようだった。
ゴッホは27歳頃から絵を描き始め、
生きている間に売れた絵は1枚だけ。
弟のテオは、兄が画家になる前から
兄の生活を支えていました。
そしてテオが結婚式をあげた日に
ゴッホは精神病の発作を起こす。
それからテオに子供が産まれたときにも…。
6人きょうだいの長男、次男。
(他に、姉妹と末弟がいます)
ゴッホの死因は
今もいろいろ取りざたされているし
テオ犯人説なんかもありますが。
でもこの二人、
お互いに大好きだったんじゃないかなと
私は思ってます。
テオは、ゴッホが死んだ後数ヶ月後に心を病み、
妻や子の顔も分からない程になって、
亡くなってる。
私がこの村を尋ねたのは、2012年7月1日。
ゴッホが亡くなったのは、1890年7月29日。
ちょうど同じ季節、この2ヶ月程を、
ゴッホがここで過ごしたのか。
じゃあ、空の色も、麦の色も、光の色も、
きっとこんな感じだったのか。
濃淡のグレーの墓石と
手向けられた花束の色が
ところどころに見える墓地の中で、
ほんとうにゴッホとテオのお墓のところだけ、
こんもり蔦の葉の緑。
ここだけ、
ゴッホの絵の具がこぼれてるみたいでした。
テオが絵の具代も送ってくれてたんだよね。
隣同士で、よかったね。
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