イースター休暇中も、宿題たっぷりのパリカト。
元々は、カルメル修道会という
大変厳しい戒律を守る修道院がここのベースらしく、
そりゃあ勉強も修行も厳しく務め上げる!ってのが
今の校風につながってるのかな、と思うと
なるほどと納得させられるところがあります…。
(ちゃんと勉強できるいい学校だと思います!)
昔はもっと広かった、カルメル修道会の敷地
パリカトの一角にあるサン・ジョセフ教会も、
パリ市の史跡の一つです。
1620年頃、イタリアからの修道士達の為に、
王室や貴族が出資して建てた教会で、
かつては肉食禁止、無言の行、
裸足かサンダルで歩きお布施を受ける、
黒尽くめの修道士たちが集った場所でした。
だから、建物もなんとなくイタリアスタイル。
今のパリカトの敷地は
Rue d’Assas と Rue de Vaugirard の交わる一角
だけになっていますが、
当初はラスパイユ大通りまでが修道会のものだった
そうです。倍以上に広かったんですね。
フランス革命以降、困窮した多くの教会が、建物の石材まで売却
パリの聖職者達にとって、フランス革命以降は
激動の時代でした。
まずは教会や修道院の特権を廃止され、
中世から続いていた、教会が集めていい税金も
廃止になり、大きな収入源を失うことになります。
こうやって教会がビンボーになったせいで、
建物に使っていた石材等まで売り払われ、
パリの教会建築は、どんどん無くなっていきました…。
そう!フランス革命で直接的にぶっ壊されて
失くなったんじゃなくて、
自ら身売り、切り売りして、パリの教会建築は
次々に姿を消したのです。
(日本だと、経営を維持するために
あちこちの寺社が柱や床を売り払った時代のは
ありましたっけね…?ないよね?
伊勢神宮や出雲大社が遷宮する際に、
神社を解体した際の物資を払い下げすることは
ありますが、それとは全然違いますし。)
まあそもそも教会が、国でもないのに
税金とってた位の組織だったってのがある意味スゴイ。
土地や財産も没収され…、さらにリストラまで…
フランス革命後は、
アントワネットらの浪費も積み重なって
フランス国家は大赤字…
革命派は、これを解消する為に、
教会や修道院の土地や財産をがんがん没収します…。
カルメル修道会も、敷地周辺に持っていた貸家等を
没収され、さらにビンボーになっていきました。
極めつけは、聖職者を公務員にして、
司教管区を変更するという、
「聖職者基本法」に基づく大リストラがスタート!
当時のローマ法王は
この革命派の措置に反対声明を出すのですが…。
ネットも電話も無い時代、パリとローマ間の
情報のやり取りは、延々時間がかかります。
馬でお手紙、運んだんでしょうか。
話はなかなか進まない。
ついに戦争が始まり、革命反対派は次々に逮捕される
そんな中、プロシア・オーストリア軍 vs
フランス革命軍の戦争が勃発。
国内もゴタゴタしてるのに
おちおち戦争なんかしていられない!と
フランス革命軍。
反革命派を封じ込める為に、あらゆる革命反対派や
先述の聖職者基本法に反対する聖職者達も
ターゲットに加え、片っ端から逮捕し始めます!
監獄に使われたサンジョセフ教会…
かわいそうなカルメル修道会。
数あるパリの教会の中でも、なぜかこの
サン・ジョセフ教会が
なんと逮捕者達を収容する監獄として
使われることになってしまうのです…。
逮捕しすぎて、監獄が足りなかったんですかね…。
160人くらいがギュウギュウ詰め、
囚人達は石の床に藁をしいて寝ていたといいます。
これがまだ、夏場の8月10日のことなので
寒くなかったのは幸いか。
真冬の石造りの教会の床に、藁だけで寝るなんて
寒すぎますからね。
しかし、それだけでは済まなかったのでした…。
過激な一派が乗り込んできて、囚人達を尋問、処刑し始める
収監騒ぎからひと月程すぎた1792年9月2日のこと。
パリのあちこちで
革命反対派を襲撃し殺害していた一団が
突然このサンジョセフ教会にもやってきて、
逮捕されていた聖職者達を、一人ずつ尋問し始めたのです。
尋問の内容は、
「聖職者基本法に賛成か?反対か?」
…つまり「革命に賛成か?反対か?」ってこと。
逮捕されていた聖職者達が、ここで、
「公務員になって国に仕えるのではなく、
自分は神に仕える身」だと言おうものなら、
その場で即刻「処刑」されてしまったのです。
その場で、即刻、ですよ。
160人の囚人のうち、116人が殺されて、
何とか脱獄した人もいたものの、
この日から2日2晩の間
パリ中の監獄の囚人が虐殺されるという事件にまで
発展してしまいます…。
いきり立った群衆の大混乱の中、
処刑されたうちの多くは、革命反対派でも何でもなく
ただの窃盗犯や売春婦だったそうです。
(革命反対してなかったのに)
本当に反革命派で、処刑された囚人は
四分の一程度しかいなかったとか…。
何ていい加減な話だろうか…群衆の狂気か。
要は、マトモな審査は無く、問答無用で
一般人が、囚人を殺していった、ということ。
混乱って、こういうことだ。
やったのは軍人ではなく、一般人。
結果として
パリだけで1100人以上の囚人が殺され、
フランス全土で14000人とも16000人とも言われる
犠牲者がでました。これがいわゆる九月虐殺です。
ついにパリ・カトリック学院大学が開校
うちの学校が、そんな事件の舞台だったとは…
九月虐殺から約80年後に起きた
パリ・コミューンといい、パリの歴史は凄まじい。
ナポレオン時代に入ると
事態はすっかり沈静化しましたが、
まだ暫くは、このサンジョセフ教会も
監獄として使われていました。
なんとナポレオンの妻、ジョセフィーヌも、
ナポとの結婚前、かつてここに
投獄されてた事があります。
その後、サンジョセフ教会を含むこの場所は
篤志家の手で修復されて女子修道院となり、
あの恐ろしい1871年のパリ・コミューンの後、
第三共和制時代になってから
ようやく1876年に
パリ・カトリック学院大学が誕生したのです。
(パリコミューンの5年後…)
自分達の通う学校にそんな歴史があったと
知らないままでいる留学生も多いようですが…
今学期の終わりまでには、私も一度この教会で、
パリカトにお世話になりましたって
御礼のお祈りをしていこうかと思っています。
そしてもちろん、
二度と、そんな事件が
この街で起きませんように、って。
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