”ヒロシマ・モナムール”を観に、映画館へ。

フランス社会・街並み・建築
この記事は約3分で読めます。

八月になり、パリは連日の暑さです。
美術館や博物館にでかけた際、冷房があれば
そこで一息つくことができます。

しかし、夏のパリ右岸の観光地は
中国人観光客グループが大変多くなるのと、
特に、短時間であちこちを周るツアーの人たちは
入り口で我先に入館しようとする傾向があり、
余計暑さが増す…みなさん、落ち着いていこうよ…

さて。
夏のパリで、美術館など以外に冷房がある場所なら、
映画館もよし。しかも観光客は来なくて空いてる。

今、フランスの作家マルグリット・デュラス原作の、
ヒロシマ・モナムール(旧邦題:二十四時間の情事)
が復刻上映中なので、それを観に行ってきました。

ヒロシマ・モナムールという映画を、フランスが製作した意味

「ヒロシマ・モナムール」は1959年の日仏合作映画。

こちらの映画館、Le Champoで鑑賞

公開当時、被曝した広島を舞台にして、
被爆者の姿も映した作品であった為
アメリカにとっては当然気に入らない映画。
むしろ、タブー題材だったとも言えるほど。

しかし、フランスのカンヌ映画祭は、
この作品を高く評価しました。
アメリカに気を使って
映画祭コンペ出場という形ではなく
特別招待枠作品の扱いにはしていたものの、
それでもヒロシマ・モナムールは
世界的に知られる一本になっていったのです。

フランス、こういうパンクなところはありますね。
圧力に、屈しないというか。

映画の冒頭でのみ
原爆投下後のヒロシマの人たちの様子が
実録フィルムと、戦争映画のフィルムを混ぜて
映し出されました。

見にきていたのは年配の方が多かったのですが、
悲惨な映像が流れた一瞬、
場内からうめき声が漏れていました。

映画撮影に、手持ちカメラや録音マイクが入ってきた頃の作品

ストーリーは…
フランスの恋愛映画を全く解さない私は、
語る口を持ちません…

映画史というか、
フランス映画製作の、歴史的背景でいうと、
ヌーヴェルヴァーグの走りの頃の作品。

手持ちカメラや録音マイクが登場し、
(→それまでは、カメラもマイクも巨大で
  動きながら撮影できなかった)

スタジオではなく屋外で撮影できるようになり、
(→セットじゃなくて、ロケにいって
  その時代の実際の街の様子も撮れるようになった)

そんな新しい技術のおかげで、
映画において、スター役者と豪華な衣装とセットで
戦後、娯楽に飢えた観客に夢を持たせようとする
作品ばかりではなく、
もっと自然に人々の暮らしや様子を、
映そうとしはじめた時代の作品。

映画に、ドキュメンタリーフィルムの影響も
入ってきた頃です。

被爆後10年で、復興しつつあるヒロシマの様子が、
見てとれます。

アメリカとは異なる。カリテ・フランセーズの作法

ヌーヴェルヴァーグ以前からフランス人は
「我々のやり方はカリテ・フランセーズだ!」
と言って、(訳:フランス品質、って感じかな)
アメリカ映画産業が得意な
派手なセットや演出で魅せるのではなく、
脚本の巧みさ」に心を砕いていた。

カンヌでも「うちは、うち。アメリカとは違う」って
いう姿勢をみせたのだと思います。

ちなみに、カリテ・フランセーズの脚本の巧みさとは、
例えば、女優のちょっとした小物の扱い方から、
ヒロインの性格が見て取れたり…
そういう表現が上手い、ってことです。

信心深いのか、俗物なのか、
繊細なのか、ガサツなのか、等が
映画冒頭のヒロイン一人のたった5分程のシーンで
概ねわかっちゃう…、という見せ方です。

デリケートですね。ある意味で…とても。

夏のパリは、一日が長くて。

18時からの上映を一本見た後でも
まだまだ空はこんなに明るかった。

20時過ぎくらいになると、
夕食を楽しむ人たちで街のテラスがにぎわい始める。

20:45でこの明るさ
21:30前でも、まだ明るい

何事もなく、いつもの夕食の時間だ。

明日は八月六日。
ヒロシマに原爆が落ちた日。

パンテオン。フランスの偉人たちが埋葬されている場所。

コメント

タイトルとURLをコピーしました